2026 年 5 月 8 日
TEDxICU 2025 へお越しいただきありがとうございました
2025 年 12 月 20 日(土)、国際基督教大学・ディッフェンドルファー記念館東棟オーディトリアムにて、TEDxICU 2025 メインイベント「Orbit」が開催されました。師走のお忙しい時期にもかかわらず、多くの方にお越しいただき、感謝申し上げます。
つきましては、先日、スピーチ動画が YouTube に公開されましたので、以下に共有いたします。また、あわせて本ページにて、スピーチ原稿を公開いたしますので、もしよろしければご覧ください。
スピーチ動画
スピーチ原稿(全文)
皆さん、こんにちは。国際基督教大学教養学部2年の林田航輝と申します。
まず最初にお伝えしておきたいのですが、僕は従来のTEDスピーカーのような輝かしい経歴は持ち合わせていません。しかし、僕のスピーチでは、学生としての強みを活かして、皆さんと近い目線に立ち、より汎用性のあるアイディアを共有できればと考えています。
とはいえ、皆さんはこれからよく素性の知れない僕のお話を聴いてくださるわけですので、僕をいかに形容できるかと考えてみたところ、「ガチICU生」がふさわしいのではないかと思いました。別にふざけているわけではないので、どうかがっかりして帰る支度をしないでほしいのですが…。僕は神奈川県の厚木市というところから片道2時間をかけて通学をしているので、電車の遅延などで授業に遅れることがないよう、授業開始の1時間前には大学に着き、図書館で勉強をするようにしています。一方、帰りは夕方になると帰宅ラッシュの満員電車に巻き込まれてしまうので、授業が夕方まである際は、夜の7時頃まで大学にいるようにしています。そんな僕を見て、巷では「図書館の住人」や「社畜」、あるいは「学畜」などと噂されているそうですが、これは僕の壮絶な生活の一幕だったんですね。
とはいえ、これまで2年間、このような生活をしてこれたのも、ひとえに僕が大学での学びに価値を見出していたからでした。しかし、これまでもずっと勉学に邁進する優等生だったかと言われると、実はそんなことはなく、高校時代には、いわゆる「不登校」の状態に陥っていました。当時の様子を少しお話すると、家に誰もいなくなった昼頃に目を覚ますと、そのままベッドの上で YouTube や映画を観たり、たまに本を読んだりして時間を潰し、家族が寝静まった深夜に眠くなって眠るという生活を送っていました。
このように、聞く人が聞けば叱責が飛んできそうな生活を送っていたわけですが、それにはそうせざるを得ない事情があったと言ってもよいかと思います。僕が不登校だった理由をいくつか考えてみると、僕自身の繊細な性格による心理的な不安定さ、それによる人間関係構築への不安と恐怖、あるいは、従来の日本教育への懐疑、ほかにも様々な要因が絡み合って、自分の人生に失望していたことが挙げられるかと思います。
しかし、周囲の支えもあり、その後、1年間のギャップイヤーを経て、僕はICUへ入学することができました。自分の不登校経験を客観的に捉え、また、その現象を教育学的に学びたいと考えていた僕は、学校心理学の授業を履修しました。そこで出会った友人とは、授業後も日本教育に関して議論を続けていたのですが、授業を担当されていた先生はそんな僕らを見かけ、「もしよかったら一緒に研究をしないか」と誘ってくださいました。そして、この時が僕の研究活動の始まりでした。僕は高校で不登校だったわけですが、大学でも留年や退学といった不適応行動が社会的な問題となっていることを知り、大学適応感に関する研究を行いました。
その後も、ありがたいことに様々な機会に恵まれ、これまで複数の心理学的・教育学的研究に従事し、今年の8月にはオランダで開催された国際学会で発表をするに至りました。これらの経験は、今後、研究者としての道を歩む上で確かなアドバンテージになると思いますし、一連の顛末は、過去の苦境を自らの使命へと昇華させた一例と捉えることができるかもしれません。
確かに、このような話は明快で、聴いていて興味をそそるかもしれません。しかし、この話だけでは、「仮に今苦しむことがあっても、やがてその苦悩は報われる」という楽観的ではあるものの、無責任なメッセージをもって終わらせることになってしまうかと思います。ですので、ここからは、この話を少し敷衍させて、より普遍的なメッセージを共有することに時間を使いたいと思います。
実は、先ほどの話には続きがあります。様々な苦難を経て夢のICUへと入学することができた僕は、決意を固くしていました。大学生活というと、一般的に「人生の夏休み」などと言われることもあり、学業そっちのけで飲み会や恋愛に生きがいを見出すというような話をよく聴きます。しかし、純粋に学問への知的好奇心に突き動かされ、また大学で豊かな人間関係を築くことができるのか不安だった僕は、そんな考えはけしからんと思い、入学時には、「僕は学問と結婚をするのだ 」という、一歩間違えたらやばい人のような考えを持っていました。しかしその後、ICUにいる素敵な皆さんのおかげで人間的な温かみに癒された僕は、「やっぱり人間と結婚したい」と考えるようになりました。
ちなみにこれは秀逸なレトリックになっていて、「学問との結婚」というのは学問への専心を意味しているのですが、研究者が学問へコミットするにあたり、私生活を犠牲にする必要も生じかねないということで、「人間との結婚」と対比関係にあります。間違っても誤解しないでいただきたいのですが、別にICUの先生方がろくな結婚生活を送れていないと言いたいわけではありません。しかし、意外にも大学生活で人間社会に溶け込めてしまった僕は、やがて、将来の道筋として、「研究者としてのキャリア」と「豊かな私生活」との間で葛藤するようになりました。
このように、皆さんも、自らのアイデンティティであると強く確信していたものが、何かをきっかけに揺らぐという経験をされたことがあるのではないでしょうか。人生において、一貫性のある軸をもつことが重要であるかのように語られることがよくありますが、僕は、軌道から逸脱する柔軟性にも同等の価値が見出されるべきではないかと考えています。
その理由としては、第一に、人間の認知は天気のように変わりうるものだから、というものがあります。僕は入学前に、「学問と結婚をするのだ」という認知をしていたわけですが、これは、「交友関係に乏しい」という当時の環境や、「論理的思考に優れている」という能力など、ほかにも様々な要因によって構築されたものでした。しかし、ここでの認知に影響を与えたほとんどの要因は可変、つまり、時間とともに変わりうるもので、それらの変化に伴って私たちの認知が変わっても何ら不思議ではありません。
また、私たちの認知は時間によって変化するのみならず、常に不完全でもあります。私たちは物事の信憑性を事実か否かで判断する傾向にありますが、事実であるからといって現実の全てを反映しているわけではありません。例えば、「僕はICUの2年生である」という命題は紛れもない事実ですが、この文章だけでは、「僕はICUに2時間をかけて通学している」や「僕はガチICU生である」などといった、他の事実を取りこぼしていて、現実をある偏った見方で眺めていることになります。図形に置き換えて考えてみると、仮に同一の物体を同様の正確性で眺めていたとしても、視点が異なるだけで、その物体に対する認識が大きく変化してしまいます。つまり、物事を一点から捉えようとしていては、その全体像を正確に把握することはできません。
このように、私たちの認知がこれほどまでに欠陥に満ちたものであるからこそ、日々生活をする上で、認知的柔軟性をもつことが重要なのではないかと考えています。
鬱々とした感情で日々を送っていた高校時代の僕は、凝り固まった視点で現状を眺め、そんな生活がずっと続くのだと思っていました。まさか、数年後にはその苦境を原動力に研究に携わり、そして、その一連の経緯をこのように皆さんにお話する日が来るとは考えてもいませんでした。とはいえ、やはり人生において苦難はつきもので、みなさんの苦悩を過小評価する気はありません。しかし、私たちの認知は不完全で、たいてい多くの側面を見落としていることに気づけば、苦しみの窮地に陥っている際も、少しは気が楽になるかもしれません。
街中を歩いていると、このような赤と白のポールを目にすることがあると思います。一般的な金属製のポールであれば、車などの衝突によって傷つけられ、一度折れてしまえば元に戻ることはできません。しかし、柔軟性のあるこのポールであれば、衝撃を自在に受け流し、過度なダメージを受けることはありません。私たちも、凝り固まった思考をしていれば思わぬ出来事に心を痛めることがあるかもしれませんが、認知的な柔軟性を備えていれば、その衝撃に頭を悩ませ続けることはないかもしれません。
そして、この認知的柔軟性は、自分自身を助けるのみならず、世の中をより正確に理解し、包摂的な社会を構築する上で重要な鍵になると考えています。高校時代の同級生は、不登校の僕を見て、「学校をサボっているどうしようもないやつ」と批判的に認知していたかもしれません。しかし、僕の実情を理解していた母親やカウンセラーの方は問題を俯瞰して捉えてくれており、そんな理解者こそ、苦しむ僕の大きな精神的支えとなっていました。昨今の合理化、デジタル化の流れを受け、物事を即時的かつ感情的に判断する傾向が加速しているような印象を受けることがあります。しかし、物事の表層に顕れている、アクセスしやすい「事実」が現実を正確に反映したものだとは限りません。
私たち大学生は、大学での学びを通じて、この認知的柔軟性を涵養することが求められているのではないでしょうか。大学生活を送っていると、「大学での学びが将来の生活にどう役立つのかわからない」という声をよく耳にします。確かに、大学での専門的な学びを活かして仕事に就いている人はそう多くはないかもしれません。しかし僕は、学ぶ内容と同等、ないしはそれ以上に、学ぶ過程が重要なのではないかと考えています。私たちは日々、学問を通じて新たな事実に触れるたびに、私たちの地平線は広がり、認知は柔軟性を帯びます。多くの人にとって、大学は社会に出て生活をする前の最後の教育機会ですが、大学は、変化の激しい世の中で自らを守り、そして混迷を窮める現代社会をより正確に理解する上で必要となる認知的柔軟性を涵養する場として機能しているのではないでしょうか。
僕を含め、ここにいる多くの若者は、輝かしい経歴など持ち合わせていないかもしれません。しかし、認知的柔軟性は、学ぶ姿勢を絶やさず、未知へ敢然と立ち向かおうとする私たち学習者の特権であり、そのような能力こそ、まだ光の当てられていない社会の暗闇に希望を届ける上で必要とされているのではないでしょうか。この不条理な社会には改善の余地が多分にあり、問題を根本的に解決しようとするならば、表層的な「事実」に惑わされずに、物事の本質を見抜く柔軟な思考が欠かせません。
いかにして大学での学びが社会に還元されうるのか——不登校という社会の暗闇を経験し、今や高等教育の恩恵に預かれている一人の人間として、僕は入学以来、そんなことを念頭に学びに励んできました。とはいえ、大学で学ぶ意義は人それぞれだと思いますし、いかなるものであれ同等に評価されるべきだと考えています。しかし同時に、私たち一人一人が大学での学びを通じて柔軟な思考を手にし、それを糧に社会と関わりあうことで、世の中はいくばくかよい方向へ向かうのではないかと考えています。可能性に満ち溢れた皆さんとこれからのよりよい未来を形作ることを心より楽しみにしております。
本日はご清聴ありがとうございました。
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